室町時代から江戸時代にかけては、明珍家と言えば最も著名な甲冑師の一族であり、武田信玄が被っていたとされる諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)を始め、様々な甲冑の銘品を手がけた。
江戸時代には、江戸幕府大老四家の一つ、酒井家のお抱え甲冑師として仕え、酒井家の姫路藩転封(てんぽう、国替えのこと)に伴い拠点を姫路に移した。
明治維新後の廃藩置県により甲冑の需要がなくなったことで、甲冑制作から火箸制作へと業態を変え、1960年代のエネルギー革命による火鉢から電気・石油・ガスストーブに時代が移り変わったことにより、火箸制作から風鈴制作へと業態を変化させながらも、「鉄を焼いて打つ」という「鍛えの明珍」としての本質は変えずに、伝統を守り、進化させ続けている。
目次
平安時代: 明珍家の誕生と名字の由来
(画像はヤフオク!出品の◆旧家初だし◆明珍鍛冶 火箸風鈴 明珍宗理作 共箱 栞付より)明珍家のルーツは奈良時代に端を発する。増田宗次(増田宇佐磨)が大和の国(現在の奈良県)の岡本という場所にて、甲冑師(かっちゅうし)として兜や轡(くつわ、馬の口にはめ、手綱につないで馬を制御する馬具)など、鉄を鍛えて道具を作る職を営んだのが始まりで、以降代々甲冑師としての業を営んだ。
平安時代、増田宗次を初代と数えると22代目であり、明珍家の初代となる、京都九条にて具足(ぐそく、防具のこと)甲冑師をしていた増田宗介紀ノ太郎が、第76代天皇である近衛天皇(このえてんのう、生没1139年~55年)に鎧とくつわを献上したところ、「音響朗々光り明白にして玉の如く類稀なる珍器なり(触れ合う音が明るく、たぐいまれな珍器であるの意味)」と賞賛されたことで明珍(みょうちん)の名字を賜ったことが明珍家の始まりである。
※増田宗介紀ノ太郎を第22代とする資料もネット上に見られたが、近衛天皇が第76代天皇で、昭和天皇が第124代天皇であることを踏まえると、この間に49代人が変わっているので、増田宗介紀ノ太郎を明珍家の初代、明珍宗介として、現在の明珍宗理氏の52代目が数えられているとするのが妥当である。なお、天皇家の代替わりのペースと、江戸幕府の代替わりのペースも264年間でともに15代と一致しているので、一般的な代替わりのペースの指標として使えることがわかる。
鎌倉時代: 明珍宗政が楠木正成の大黒頭巾兜を製作
(画像は生きがい様より湊川神社の大黒頭巾兜)鎌倉時代末期の元弘元年(げんこうがんねん、1331年)に、楠木正成(くすのきまさしげ、生没1294年~1336年)が着用したとされる大黒頭巾兜(だいこくずきんかぶと、現在は湊川神社に奉納)を製作たのが、明珍家9代目となる明珍宗政とされている。
※楠木正成に関しては、詳細な資料が少なく、また大黒頭巾兜の製作者に関しても、信頼性の高い明確な資料が見つからないため、明珍鍛冶由緒書を根拠とした伝承の一つという位置づけである。
室町時代: 当時日本最高の甲冑師と言われた明珍信家が諏訪法性兜を製作
(画像は諏訪湖博物館・赤彦記念館より諏訪法性兜)室町時代の日本最高の甲冑師と言われた人物が、明珍家17代目である明珍信家(のぶいえ)である。武田信玄が出陣の度に被っていたとされることで有名な諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと、現在は諏訪湖博物館に所蔵されている)には明珍信家の銘が刻まれており、信家の信は、信玄から一字を授かったものではないかと言われている。なお、室町時代明珍家は小田原を拠点としていた。
※ただし諏訪法性兜に刻まれた明珍信家による銘には文永5年(1268年)8月とあり、明珍信家が活躍したとされる文明18年(1486年)から永禄7年(1564年)とは200年以上差がある。
ちなみに明珍初代と時代が重なる近衛天皇から数えて17代目の天皇は第92代天皇の伏見天皇であり、在位期間が1287年から1298年なので、明珍信家が明珍家17代なのであれば、諏訪法性兜の銘に刻まれている通り、文永5年(1268年)前後、すなわち鎌倉時代に生きた甲冑師とする方が辻褄が合うことになる。
安土桃山時代: 明珍火箸の誕生の経緯
(画像は刃物あそび様より明珍火箸)明珍火箸は、室町時代後期の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍をした茶人である千利休(せんりきゅう、生没1522年~91年)の依頼により明珍宗弘により制作されたものが始まりとされている。なお、この当時、甲冑師にとって、火箸作りはあくまで余技であり、本職ではなかったが、宗広は火箸・鐶(かん、茶釜の上げ下ろしをするのに用いる金属製の輪)などの茶道具を手がけたとされる。
※これも、当時の火箸が現存するわけではなく、あくまで一つの伝承である。ただし、広辞苑にも「明珍製作の火箸。千利休の依頼により茶室用に作ったのが始まりという。現在は兵庫県の工芸品で、風鈴などに造る。」と記載がされている。
明珍宗信が江戸に鍛冶場を移し、「御甲冑極所日本唯一甲冑良工」の看板を掲げる。
明珍家22代明珍義時が、江戸幕府の大老である酒井忠清(ただきよ、生没1624年~1681年)にお抱えの甲冑師として仕え、上州厩橋(じょうしゅうまやばし、現在の群馬県前橋市)に住む。
元禄・宝永(1688年~1711年)ごろ中興の祖である明珍宗介が、系図や家伝書を整備するなど、自家の宣伝に努め、また、鍛造技術を顕示した作品を残すとともに、古甲冑を自家先祖製作とする極書(きわめがき、鑑定書のこと)を発行する。さらに、「明珍」の名乗りと名に「宗」の字の使用を許すなどをしながら勢力の拡大を図る。
寛延2年(1749年)、明珍家26代明珍宗房は、主君である老中酒井忠恭(ただずみ、生没1710年~1772年)が、上野前橋藩(うえのまえばし、現在の群馬県前橋市)から播磨姫路藩(はりまひめじ、現在の兵庫県姫路市)の藩主に国替になったのに伴い、拠点を姫路に移す。
明治時代: 廃藩置県による一度目の廃業危機。甲冑から火箸に業態を変え糊口をしのぐ
(画像はヤフオク!出品の【近江の蔵道具】四十八代明珍 百翁宗之作鉄製火箸より)明治維新後の廃藩置県や廃刀令により、それまで仕えていた酒井家から禄(ろく、給与のこと)をもらうことができなくなり、また甲冑の需要もなくなってしまったため、廃業の危機にさらされる。
そこで明珍家48代明珍百翁宗之が、炊事や暖をとるための炭火作業用として、当時家庭に必ず一膳はあった火箸に着目をして明珍火箸を作ることにより、技術と命脈は保たれ、また姫路重要物産にもなる。ただ、火箸はあくまで冬に使用するものであり、夏の需要がない季節商品であるため、冬の稼ぎで1年の糊口をしのいだ。
昭和15年頃(1940年頃): 第二次世界大戦中の金属回収令による二度目の廃業危機
(画像はJRA競走馬総合研究所の蹄鉄雑記帳より金属回収令ポスター)昭和16年(1941年)に、太平洋戦争へと突入していた日本は、戦局の悪化と物資の不足を補うため、官民の金属類の回収を行う「金属回収令」を公布、実施。
それに伴い、火箸の原料としての鉄が手に入らないのみならず、鍛冶道具まで供出をさせられることになる。明珍家51代当主であり、現当主宗理氏の父である明珍宗之氏は、代々続く家や土地を売り払って明珍の技を守り通す。
昭和35年頃(1960年頃): 火箸の需要激減による三度目の廃業危機と風鈴の開発
(画像は髙島屋オンラインストアより)戦後のエネルギー革命により、エネルギーの主役が炭や石炭から石油へ移行するとともに、それまで暖を取るのに使われていた火鉢、炊事に使われていたかまどは、石油ストーブやガスコンロに代わられるようになり、日用生活用品としての火箸の需要が激減する。
父から家業を継いだ明珍宗理氏は、明珍の名字の由来であり、近衛天皇の「音響朗々光り明白にして玉の如く類稀なる珍器なり」という言葉でも表されている火箸が触れ合うときの音を何かに活かせないかと考え、試行錯誤を重ねた。
その結果、昭和40年(1965年)に出来上がったものが、4本の火箸をつるし真ん中に振り子をつけるという、現在の明珍火箸風鈴である。
参考文献
本項目執筆にあたり参考にした資料を以下に挙げる。歴史に関しては、伝承のたぐいのものもあるなど、整合性が取れないものもあったが、まとめに際しては、明珍火箸本舗が作成をしている「明珍鍛冶由緒書」や、明珍家57代目の明珍宗理氏への取材記事、対談記事などをベースとして用いて、その他の資料に関しては補足資料として用いるというスタンスで行った。刃物遊び:明珍の火箸とはこれ如何に明珍は甲冑やら火打金だったのでは・・・
明珍火箸に添付されている「明珍鍛冶由緒書」の書き起こしがきさいされている。これを一次資料とし、本項目のまとめのベースとして用いた。
姫路青年会議所:未来への伝承 明珍火箸
明珍宗理氏へ取材を行ったものをまとめた記事。
歴史人:第10回 武田信玄の“諏訪法性”の兜の謎(前篇)
歴史人:第11回 武田信玄の“諏訪法性”兜の謎(後編)
甲冑師としての明珍家として最も有名な作品である武田信玄の諏訪法性兜に関する取材・考察記事として最も充実しているものであったため、該当項目まとめのベースとして用いた。
CONNOTE:ものづくり名手名言 第7回 やってあたりまえ Interviewee 明珍 宗理さん
明珍宗理氏へのインタビューがまとまった記事。
いつの時代も変わらない"モノづくりの原点" -伝統技術が広げる素材の可能性-
新日鉄の副社長宮本盛規氏と明珍宗理氏の対談記事。
茶の湯の楽しみ:茶道用語 明珍(みょうちん)
茶道用語解説のページ。出典不明なため、資料としての信頼度・優先度は落ちるが、本項目記載の補足として用いた。
tomoki-m氏のページ:明珍家とは
「日本甲冑の基礎知識」をベースに記載された項目があったため、本項目記載の補足として用いた。
やまびこは語る
明珍の甲冑や明珍火箸に言及している箇所があったため、本項目記載の補足として用いた。